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神秘体験の種々相Ⅱ ―純粋精神・神々との出会い―

¥ 3,300 +税

著者の最高の宗教経験と悟りの状態が可能な限りわかりやすく解示され、人間の自己実現の目標が明示されており、人類の存続の危惧される時の人間のあり方が明らかに指し示されている。信仰を深め、行を重ねて霊的成長の達成を願う方にも、また自分の仕事をとおして自他の幸せに貢献したいと願う方にも、さらに、心萎えて気力を無くした方にも、ぜひ、お勧めしたい一書。

A5判 上製 249頁
価格:3300円
ISBN:978-4-87960-055-4

商品カテゴリー: Product ID: 1382

説明


神我(プルシャ)との合一、神秘体験は一つの生涯で成就できるようなものでなくて、
何回、何十回の、前生での修行と真理の探求、思索によって初めて成就されるものである。
(-中略-)
神我は、場所的個として働く。その働きは、創造神との一致においては、宇宙創造に加わる。
創造神は一切の存在を超越した絶対(無)が自己否定をして働き、存在性をもつ限りにおいて成立する。

この絶対無が働く時、創造神となる。しかし、絶対無は創造神、一切の存在を超越して絶対無であり、絶対有である。

ここにキリスト教の創造神・創造・被造物・仏教の空、現象の世界 が統合される普遍的真理が内在する。
ここに至って、プルシャの次元での解脱が創造神との一致における解脱に進み、さらに、絶対無における究極の解脱に進む道が明らかになるであろう。

Ⅰプルシャについて

  • (1)絶対と創造神――被造物との関係  
    プルシャについて
    プラクリティについて-プラクリティの中の精神の芽-
    プルシャと創造神の共働
    絶対と創造神
    現実の世界の相互依存と空
  • (2)プルシャについて
    物の原理には支配されない
    プルシャは物の力を含む
    プルシャの身体性
    土地の魂とプルシャとの共働
    個人としての身体性をもたない
  • (3)プルシャとの合一
    場所、プルシャの意識
    魔の体験
    法雲三昧
    プルシャの意識の目覚め
    プルシャの合一とサハスラーラ
    プルシャの目覚めで生じる超能力と境地

Ⅱ プルシャとの合一について

  • (1)プルシャ、プラクリティを、原子やクォークとの対比で考える
    物質世界のアトム
    物質以前の世界>
    一切の存在を成り立たせるもの
    プラクリティの本質
    プラクリティに秩序を与えるもの
  • (2)プルシャとは何か
    物の力を含む
    愛の働き
    民族や自然を己の身体性とする
    個人としての身体性をもたない
    チャクラ、ナディはない
  • (3)プルシャとの合一の前に魔が現れる――魔の出現
  • (4)プルシャとの合一
    アジナの覚醒-魂の存在次元と、各次元における宗教経験の三つの段階-
    利己性の否定
  • (5)創造神との合一 ――絶対無と創造神

Ⅲ プルシャと創造神

  • (1)プルシャとカラーナの、物への働きの違い
  • (2)プルシャの目覚めで生じる能力と境地
    物の世界の時間、アストラル、カラーナの世界の時間と、プルシャの世界の時間との相違
  • (3)プルシャと創造神 生死の場所――創造神 創造神との合一による、個と創造神の消滅
  • (4)場所的個――創造的場所的個 場所的個の目と人間の目の違い、絶えざる創造
  • (5)プルシャとの合一体験 質的合致 流入
  • 付録  質疑応答

Ⅳ 身体、場所的個(プルシャ)、空について

  • (1)種々の次元の身体について
    肉体
    アストラルの身体
    カラーナの身体
  • (2)物や身体についての科学的見地からの理解
  • (3)場所的個になる
    自由
    身体と結びついて働いている心は因果の法則に従う
  • (4)場所的個と再生――不変と随縁―
  • (5)創造神と宇宙霊と一者(絶対者)
    本当の悟り
  • (6)二元論と科学
  • (7)空について
  • (8)即非の論理
    砂漠の宗教と農耕地の宗教
  • (9)プルシャとの合一

Ⅴ プルシャになる

  • (1)プルシャになる
    プルシャの働き
    流入
    魔の出現
    今までの自分は場所的存在の道具
  • (2)場所的個と、場所的個となったものとの間の一致と不一致
    プルシャの次元では身体の創造はできない
  • (3)質疑応答
    アストラル・プロジェクション
    砂漠の宗教がカルマ、再生を説かない理由

Ⅵ 場所の意識

  • (1)プルシャの多次元性
    肉体を消滅、創造できないプルシャ
    肉体を創造、消滅せしめうるプルシャ
  • (2)プルシャになる
    場所の意識と人間の意識の共存
  • (3)プルシャと創造神の共働
    場所的個の存在直観-精神直観-
    セム族宗教と仏教との統合

付録Ⅰ 送り手、受け手の間で気エネルギー、アストラルのエネルギーを送る実習
付録Ⅱ――IARP上級クラステキスト


(三)プルシャとの合一の前に魔が現れる-魔の出現-

「プルシャとの合一に入る前に、必ず強力な魔が現れて、プルシャへの解脱を妨害する」 (テキスト)
『天台小止観』という本の「覚知魔事」の項には、魔について中国式にいろいろ書いてあります。
チベットに行くと、魔の説明は又いろいろな形で変わるのです。

しかし要するに魔というのは、物の力が非常に強く現れたもので、プルシャの次元の力に匹敵するような強い力をもった何か、ですね。
カラーナの次元というのは、人間の次元としては最も高い心の状態だけれども、カラーナの次元でさらに強力な純粋な精神、プルシャに近いような状態になって、それが物の力に支配されて、自分の支配領域とか支配するものを増やそうというふうになった時に、それは物の力に負けているわけで、そういうのが魔なのです。

魔というのは、カラーナの次元に上がってきた心が、プルシャの次元、より自由な、つまり物理的な物の次元を超えた世界に行こうとすると、それに入らないように邪魔をする力なのです。
あるいは自分の心の中そのものに、カラーナという存在の中に、まだ物の力が潜んでいるわけですが、その物の力が破れるのが近づいてきた時に、自分の存在の中にまだある物の力そのものが、破れまいとして、破れるのを邪魔する形として、ちょうどラムネの栓を抜いた時にワーッと出てくるアブクみたいに激しく出てきた、それを魔とも言えるわけです。

物の力というのはとても強いのです。自分の中にも、とても強い物の力がある。
ですから、自分の内の、その強い物の力に従っている限りは、自分が魔として働く可能性はいつでもあるわけです。

たとえば今度の中国の場合もそうですね。
一連の長老達が権力を握ったところで、その権力者達が決めた体制に従って国民が生きている限りは権力者達は国民を守ってくれる。いろいろに保護してくれる。しかしその体制では皆が決して本当に幸せにはなれないから反対をしようとすると、権力者達は反対する人たちをやっつけて殺してしまう。

ですから、行をすることによって、物の力にコントロールされることを斥けてカラーナの次元にまで達したとしても、依然として物の力はまだ自分の中で動いているわけです。
そして、物の力から完全に脱却した状態に入ろうとすると、物の力は自分が壊されていくわけだから、壊れまいとして、自分(物の力)を守るために、行をする魂が物の力から脱却して、より自由な、完全に物の力を離れた状態に達することを、最大限の力で邪魔をする。それが魔だと思うのです。
本質的に魔とはそういうものだと思います。

その時そこに、いろいろなカラーナの次元あるいはアストラルの次元の、要するに或る魂が自由な状態になることを好まない霊、そういうものがいろいろな形でそれを邪魔する力として現れるわけです。それは実際すごく強いのです。
そういう力に出くわしてみると、人間がいかに貧弱で非力であるかを実感します。

死に直面した時、人間というものは生にしがみついたり恐怖をおぼえます。
魔に遇った時の怖れはそれよりもはるかにもっと強いように思います。しびれて動けなくなってしまうような恐怖です。
自分が大きな無限の暗い谷の崖っ淵に立ったというか、奈落の底がポッカリ口を開いてまるでその中に吸い込まれるような、非常に怖い感じがする。
そこに落ちたらもう魂も心も身体もいっぺんに消えてしまうような感じがする。
坐っている間にも、何か得体のしれない大きな何か、自分が進歩をしていこうとするのを妨げるような何かを感じ、ともかくすごい恐怖が湧く。そして、人間の存在というのは本当に塵みたいに小さく、吹いたらいっぺんでパッと消えてしまうような感じがします。

行をして一年かそこら経った頃でしたか、そういう状態が何カ月か続きました。
海軍の特攻隊に入っていた時には、いつ死んでもいいというふうに、死んだり生きたりするのを超えていたように思っていたけれども、無限の奈落の底の淵に自分が立っているような感じがすると、背骨が震えるような怖れが初め何回か起きたように思います。
それを、このまま死んでも神様にお任せすればいいのだというふうに思ってそれを乗りこえた時に、パッと神様の力が自分の内にものすごく入ってきたように思うのです。

プルシャの次元には、自分の力では上がれないのです。
しかし神様の力が入ってくるのは、魔に出くわして、自分が個人として在るのを支えている、個人としての自分の存在をつくってくれている物の力が消えてなくなる時の恐怖を乗りこえて、神様に全てをお任せできた時なのです。

魔に出くわしたその時は、本当に自分が一瞬のうちに身も心も魂も消えてなくなるような、非常に恐ろしい気がします。
本当に無限の何かがパクッと口を開けた中に落ちていくような感じがして、非常に怖かったですね。そして何か鬼のようなもの、魔的なもの、そういうものが絶えず周りにうごめいているみたいで非常に怖い思いをした。

たいていの場合はそこでへこたれると思うのです。
それを乗りこえることはなかなか難しいように思います。
そこで、死ぬというようなことを全然構わないで、死んでも生きてもいい、ただ神様にお任せするよりしようがないという気持ちが出来たら、一瞬にはなかなか出来ませんね。
一カ月ぐらい、自分の心の中で争いがあったように思います。
それで、神様にお任せしてこのまま死んでもどうなってもいいのだとすっかり心が決まって坐って一週間かそこら経つうちに、或る日突然ウワッとものすごい力が、それはもう何とも言えない光、いつも言いますが、太陽がいっぺんに千も輝いたようなすごい光と同時に、溺れる時の海の波の力のようなものすごい力が入ってきて、その時すぐに意識がなくなったように思います。それが、プルシャの次元に上がった最初の瞬間だったように思います。

神様のお力を戴いてプルシャの次元に上がる前に、魔に遇ったというか、自分の中にある物の力が消えてなくなる時というのは、とても怖かったですね。
特攻隊にいた時に、毎日戦闘機が飛んできて、アメリカ軍の鉄砲の弾は日本の機関銃の弾よりはるかに大きく分厚くて、一発当たったらいっぺんに死んでしまうようなのが土煙をあげて追いかけてくる。そういう目に遇ったら本当に怖い。逃げるしかしようがない。

本当に人間というのは、あとで反省をして思うのですが、伏せたら面積が広くなって当たる率が大きくなるわけだから、伏せないで立って逃げる、あるいは腰をかがめて逃げればいいのだけれども、なかなかそうはいかなくて、初めの時はパッと伏せた。運よく弾が当たらなかったから今こうして生きているわけですが、やはり機関砲に追いかけられると、人間というのは本当に右往左往します。

うろたえないようには初めはなかなかできない。
要領がわかってくるとうまいこと逃げるようになりますが、初めはパッパッ!と土煙をあげて弾が追いかけてくるとどうにもならない。
しかし、魔に遇った時の怖さというのは、そういう時の怖さとは比較にならないほど怖いのです。

小学校五年生の満十歳の時、チフスに罹って死に直面したことがあります。
現在小豆島のホテル・ニュー観海のある辺りはその頃は何もない山で、山にかかった辺りに避病院が一軒あって、チフスだの赤痢だのコレラだのになったやつを皆その中に放り込んで、一つの部屋に二、三人いて、死ぬやつは死ぬよりしようがない。
私も一カ月半ぐらいいたのですかな、いくらたっても菌がなくならないで、妙ちきりんな具合に腹がギューッとしぼって、痛くて気持ちが悪くてどうにもならない。食べられる物も何もないから骨と皮みたいになって、起きあがることも寝返りもできなかった。そのぐらい弱りきって、周りでは人が死ぬ。でも、意識はどういうものかすごくはっきりしていて、全く死ぬようには思わなかった。

そういうのとも、魔に遇った時というのは全く違うのです。
日頃、人間は物の力に支配されて生きている。
たとえば皆さんも余り腹がへった時にはガツガツ食べるでしょう。あれも物の力に支配されている証拠ですね。
そして、或る人が物の力を超えてそれを離れようとする時、物の世界の力はそれを防ぐために強烈に働き、恐怖心を起こさせる。
そういう魔に遇うわけです。これは遇ってみないと、その怖さは分からない。
キリストについても釈尊についても誰の場合でも、こういうことはみな書いてあります。
物の力が壊れようとする時は、ものすごい物の力が先ず現れてくるわけです。

強大な物の力からの脱却は、神様のお力なしにはできないのです。
神様のお力が入ってくる時には、最初は白い、しかしものすごい光が見える。
それから、法雲三昧というか、井の頭の宗教心理学研究所の玄関のガラスに、雲の上に菩薩が乗っているのが描かれているでしょう。

魔に遇ってそれを克服してからは、ああいう感じに、絶えず光っている、大きな雲の上に乗っているような感じで、そして自分がすごく光っているのです。
そして坐っているのだけれども、現実に坐っている場所で坐っているのではなくて、かなり高いところで、光っている雲のようなフワフワしたものの上に自分が乗っかって坐っているのです。

その自分が非常に光っている。
そしておかしいことに、自分がそこ(雲の上)にいるし、下にいるようでもあるし、同時にどこにでもいて、初めはとても妙ちきりんなのです。