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本山博著作集(全13巻+別冊2巻)

¥ 170,000 +税

著者:本山博

本山博著作集刊行編 菊判・上製・函入

ISBN 978-4-87960-301-2 ~ 978-4-87960-315-9

全巻揃価格 170,000円

著作集

商品カテゴリー: Product ID: 1360

説明

  • 第 1巻 思想と研究の原型
  • 第 2巻 超心理学の電気生理学的研究
  • 第 3巻 現代における密教的修行
  • 第 4巻 霊的進化と宗教
  • 第 5巻 カルマから解脱へ
  • 第 6巻 地球社会と宗教
  • 第 7巻 修行者から覚者へ
  • 第 8巻 神秘体験の種々相
  • 第 9巻 現在と将来の宗教の指針
  • 第10巻 経絡研究
  • 第11巻 経絡研究の発展~AMI
  • 第12巻 脳・意識・超意識
  • 第13巻 東西医学による診断の比較
  • 別巻1 太乙金華宗旨・他
  • 別巻2 宗教心理研究・年譜他


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「本山博著作集」第一巻の読みどころ

玉光神社宮司・IARP会長 本山一博

超感覚的なものとその世界 ~著者の「夢の設計図」~

これは著者の初めての著作です。20歳代から30歳代前半にかけて書かれた論文をまとめた学位論文であり、ユネスコの優良図書に選ばれました。この論文には宗教的世界観、修道論、科学的研究など、著者のその後の探求の歩みの方向性がすでに示されており、若き宗教家、研究であった著者の「夢の設計図」と言える内容になっています。学位論文でありますので、その語り口は難解でありますが、論旨の展開がそれだけ整っていて、その意味では読みやすいと言えます。
宗教の世界、霊的な世界という日常や科学を超えた世界をどのようにして科学的に探求していくのか、その発想の原点が示されています。それは霊的な知識と実験において得られるデータを「重ね合わせて」見ることです。そして重ね合わせるためには霊の世界と物理的な世界の両方にまたがった存在である人間を、特に超常現象という文脈の中で電気生理学的に測定するのです。そして霊的な世界の知識で最も重視されるのがチャクラについての知識なのです。
修道論つまり修行の論理では意識化ということが問題になります。通常の人間にとっては意識できない無意識や霊的な意識が意識化され自覚される道筋として修行の階梯が語られていきます。さらに催眠現象との関連で、宗教的行における精神の進展は生理学的な現象と切り離せないということが指摘され、後の著者独特の修道論に発展します。
さらに修道論の更なる深まりとともに宗教的世界観が構築されていくのが最後の章です。しかもこの章が最も古い論文で、20歳代半ばのころに書かれたものだということは驚嘆すべきことです。ここでは宗教体験は、神々つまりプルシャとの一致、創造神との一致、それらを越えた究極の体験と階梯を追って語られていきます。この神々や創造神との一致をなした人間は「場所的個」となることがこの最初期の論文ですでに述べられるのです。そして、それらの宗教体験はその体験の次元の高低に関わらず共通した構造を持つと主張されます。それは人間を超えた神々や創造神の意識つまり超意識を持つためには、人間は自らの努力による自己否定の極で、さらに神によって完全に否定され、ある意味で一度死ななければならないということです。自力と他力という問題にすでに答えが出されていたのでした。そしてその修道論の展開とともに、絶対者が自己否定をして宇宙を創造するという壮大な世界観が語られます。

存在のより高い次元 ~個人性-社会性、そして超作~

この短い論考では人間の個人性と社会性が語られます。人間にこの両方があるというのは当たり前のことです。しかし著者はこの当たり前のことを個と場所という概念を背景に語ります。つまり社会を単なる個人の集合とは捉えずに、その背後の場所的存在つまりプルシャがあると論じます。そして場所つまりプルシャを背景とした、人間の自己否定をともなう日常的な行為を超作と捉えます。

宗教と超心理 ~科学的な実験がより進歩し、それにより唯物論を否定する

電気生理学的な研究方法はさらに進化します。科学的な実験が進むにつれ、霊的進化をした人間においては精神と身体との相関がますます密接になることが分かってきます。しかも単に密接であるというだけではなく、それらの実験結果を通じて、人間の精神が決して脳や身体だけに還元して捉えられるものではないことを示します。

心の確立と霊性の開発 ~空の思想の深まりと著者の修道論の方向性~

この著作では有名な座禅の古典的テキスト「天台小止観」を著者が自らの体験に基づいて解説します。この古典的名著に触れてか、著者の空に対する理解はそれまでの密教的な理解に竜樹菩薩的な縁起的な空の理解が加わり、それを自らの体験に結び付けて考察することにより深まっていきます。
また本来チャクラという文脈にはない「天台小止観」の行法をチャクラに関連付け、チャクラシステムによって宗教的行を統一的に見ていこうという姿勢の萌芽が見えます。
それは精神的修道のみならず、身体的な修道を重視していくという著者のその後の修道論の展開を先取りしています。

天台小止観・覚知魔事について ~唯心的な仏教理解ではなく・神様も悪魔も実際にいる~

天台小止観に限らず、(大乗)仏教ではすべてのものは心の現れであると説く傾向がありますが、著者は神様の実在、悪魔の実在を自らの体験に基づいて説きます。これは天台小止観との決定的な違いなのですが、一方では著者は空の思想も説くのです。

「本山博著作集」第二巻の読みどころ

玉光神社宮司・IARP会長 本山一博

フィリピンの心霊手術

フィリピンの心霊手術とは麻酔を使わずに素手によって現代の外科手術のような治療が行われるという劇的な心霊治療の一種です。心霊手術を日本に本格的に紹介したのは著者が始めていらっしゃいます。それは当時大きな論争を巻き起こしました。
本書は調査行の旅行記的な第一部と科学的な考察の第二部とにより構成されています。この紀行文から事実に即して真実にいたろうという著者の姿勢が鮮明に見えてきます。著者は肯定論者も否定論者も実際に心霊手術も見ていない人が多いことを嘆かれます。真実に至るには自らが事実をありのままに見る姿勢が必要であることを繰り返し述べられます。このことはすべてのことに対する著者の姿勢の特徴です。
また、著者はフィリピンでの心霊現象、神秘的現象に触れて今まで自らの体験によって知っていた神秘的世界の構造の普遍性について確信を深められます。また、博士論文で問題にされながらもフィリピンでの見聞によってさらに肉付けされた概念もあります。そのような普遍性への確信や概念の具体化は、フィリピンという未知の土地、インドや中国の伝統とは異なる伝統の土地での見聞により得られたものでありましょう。
この紀行文的文章は著者のものとしては異例です。本書から見えてくる著者の姿は40代の男性としての等身大の姿です。例えば、以前に飛行機で恐い思いをした体験から人以上に飛行機に乗ることに不安を覚えられるのですが、そのことは「(前略)小さな飛行機を見るとまた大丈夫かなと思った。心の底では神様に生も死もお任せしてあるから、一向に動じてないつもりだが、心の表面ではいかにもガタガタと震えている自分が何となく奇妙であった」と記されています。このような率直な文章も本書の魅力になっています。
また、この率直な文章ならではの興味を引く部分があります。心霊手術のような神秘的な出来事を研究しようとするときに出鼻をくじかれるような、真理が身を隠すような出来事がしばしば起こると記され、それに関連して次のように書かれています。我々人間には(中略)知的直感、宗教的神人合一の世界の秘密は人間が知る必要はない、(中略)神がそれを秘密のベールのうちにかくしてしまわれる、我々の手が届かないように仕向けられるのかもしれない。
それにもかかわらず、私は身の内に、何とか明らかにしたというやむにやまれぬ衝動を感ずるのである。そしてひたすら辛抱強く忍耐し、研究を重ね、宗教的修行を重ねてゆく内に、何か突破口が開けてくるように思うのである。ここでは著者が神や神々への畏怖と同時に、さらに高いところから来る自らの使命を感じられているように思えます。

ヨガと超心理

本書において著者のその後の修道論と電気生理学的研究の方向性がほぼ決定します。修道論、さらに言えば具体的な行法については身体をベースにした行法に軸足を置かれることになり、電気生理学的研究については中国の経絡理論をベースにした測定、つまりその後のAMIの発明への序奏となる研究へと舵を切られます。そして、その両方の背景になるのは宗教的行における、あるいは宗教的行を成就した者における身体と心との密接な相関関係(心身相関)なのです。
例えば、著者はお行において息を止めることの重要性を本書の中でもたびたび触れられます。その中で精神集中、瞑想、三昧の区別を止息の時間の長さ、呼吸のゆっくりさでつけていらっしゃいます。「ヨーガ・スートラ」では精神的な質で区別されていたこれらの三つが、呼吸の長さという肉体的な量で測られています。これは例えばキリスト教の神秘主義から見れば奇妙なことでしょう。
著者は自らの体験から宗教的行には生理的な変化が生じることをご存知でしたが、長年の電気生理学的な研究からそれが客観的なものであり一定の普遍性があることを突き止められました。しかも、宗教的修行の進展においては、心のあり方が身体のあり方に影響を与え、反対に身体のあり方が心のあり方に影響を与えるという双方向の相関関係にあるのです。それゆえ、宗教的行において身体技法が心の成長、著者の言う霊的進化に資するのです。
そのような心身相関についての実験を高い精度で行うための新たな試みが本書で初めて述べられます。著者は霊的な器官であるチャクラの働きが、身体面では特に自律神経とそれに対応する臓器の働きとよく対応することを今までの研究から確かめていらっしゃいましたが、従来の測定法には余り満足できなかったようです。ご自身のインドでの病気や私の母の疲労のときの状態などがヒントになって、左右それぞれに14ある各経絡の井穴の直流抵抗値、皮膚温を測定してそれを統計処理するという実験を始められます。そしてこの井穴の測定の更なる発展形がAMIなのです。

「本山博著作集」第三巻の読みどころ

玉光神社宮司・IARP会長 本山一博

第三巻の読みどころを紹介します。

「密教ヨーガ」「チャクラ・異次元への接点」

この両著はヨーガの現代における古典だと言えます。1970年代後半に、これほど詳細にハタヨーガ(クンダリニーヨーガも含む広義のもの)の技法を紹介し、またチャクラについて正面から取り組んだ書物が日本において出版されたことは驚くべきことです。もともと両方の著作は一冊の本としてまとめられる予定でしたが、『密教ヨーガ』が先行発売されました。
本書の特徴の一つを一言で言えば「形而下(形あるもの、この世で経験されるもの)への志向」です。霊的成長を説く本がなぜ形而下を志向していると言えるのでしょう。まず前提として著者が経絡-臓器機能測定器(AMI)を発明されたことがあります。著者は中国医学で説かれる気の通り道である経絡の存在をAMIの測定により科学的に証明されました。つまり経絡が形而下のものとして捉えられるようになったのです。例えば、瞑想中に両方の手の親指と人差し指で輪っかを作るムドラについて、その意義を著者は経絡理論に基づいて説明なさいます。それに対してインドの伝統的な解釈は神話的です。このような意味で本書は「形而下への志向」を示しているのです。本書全体を通じて著者はチャクラ、ナディやアーサナなどの身体技法を経絡理論に基づいて統一的に説明なさいます。
本書のもうひとつの特徴は「媒介者としてのチャクラ」です。チャクラが次元の異なる身体の相関やそれぞれの次元の心身の相関における媒介者であることが繰り返し述べられます。伝統的なハタヨーガにおいては、チャクラはあくまで微細身(霊体)の中心器官であり、媒介者としての性格はそれほど強調されないように思います。
チャクラ教説は、著者にとって神秘領域にあるものでありながら一方では科学的探究の対象となるものなのです。その点では経絡と同じです。経絡もその存在は解剖学的には不明であるゆえにある意味で神秘的なものでした。しかし、AMIの発明により科学的な探求の対象となりました。そして著者は経絡を手がかりにして、経絡よりさらに霊的領域の側にあるチャクラを解明しようとなさったのです。そしてチャクラの科学的研究という領域に踏み込んでいくための大きな手段になったのが、チャクラよりさらに物質的な次元のものに近い中国的気、経絡を科学的に測定するAMIなのです。AMIの発明の意義は実に大きいのです。
『密教ヨーガ』の主題は経絡の理論とAMIとチャクラマシーンの二つの機器の実験に基づいて、チャクラというものに可能な限り形而下的にアプローチし、チャクラにおける実験で検証可能な心身相関の働きを探り、それが宗教的行においてどのような役割を果たすのかを自らのチャクラ覚醒の体験に基づいて語ることなのです。
ご自身のチャクラの目覚めによるさまざまな超能力や精神的徳目、神との接触、悟りの体験などが述べられますが、そのほとんどは今の時点では科学的探究の対象にならないものです。しかし、自らの体験を語ることによって、著者は本書において単に形而下への志向を示されるだけではなく、ハタヨーガがまさに宗教的な行であることを説得力を持って示されます。
著者は魂があるということを人に知らせたい、そのために科学的にそれを証明できる学問分野を作りたいと若い頃から願われていました。そのなかで経絡理論に基づいてチャクラやナディを探求するという方向性を見出し、AMIの発明により実験方法も確立しました。しかしその発明の4年後、研究者として脂が乗り切る頃である48歳のときに妙光之神様が60歳代半ばで亡くなりました。そして玉光神社という教団の運営の全てを宗教面おいても経済面においても負うことになりました。そのとき私を入れて小さな子供が五人いました。著者は『密教ヨーガ』を執筆した52歳の頃、忙しさが増す一方の教団運営の中で、チャクラ、ナディ、クンダリニーからなる霊的生理学の科学的研究の道筋をつけ、研究を進ませられるところまで進ませたいという気持ちが強かったのではないか思います。

「本山博著作集」第四巻の読みどころ

玉光神社宮司・IARP会長 本山一博

第四巻の読みどころを紹介します。 この巻に収録されている著作に共通することは、宗教的行が古典ヨーガの綜制(精神集中、瞑想、三昧の三段階)と博士論文の著者が独自に示された宗教的行の三段階(単純な一致、エクスタシー、完全な一致)をほぼ同一視したプロセスで説明されていることです。そして、『密教ヨーガ』で示された身体的な行法は大きく後退しています。また、霊的進化により心が変容したとき、もとの心がなくなるのではなく、もとの心とそれと対立していた対象の両方が、霊的進化により新たに生じた(あるいは顕になった)心の中で支えられ生かされるということが一貫して述べられます。主客合一はそのようなことの一面として述べられているようです。また、進化とは場所になることだということもその文脈の中で語られます。また、そのような進化した心はもとの心と対象であるモノとを統合したところにあるとして、心とモノの関係が述べられることになります。

超意識への飛躍

ここでは宗教的行としてのヨーガが解説されていますが、上述のような綜制的なモデルで説明され、第三巻に見られたハタヨーガ的視点は大きく後退します。とくに第一章は1977年の講演録であり『密教ヨーガ』が1978年であることを考えると不思議なほどです。私の知る限り著者は宗教的行を三つのモデルで説明しますが、一つが綜制であり、二つ目は独自の三段階であり、三つ目はハタヨーガモデルです。一つ目と二つ目は博士論文では別物として述べられているものの第四巻に収録された著書を書かれたこの頃にはほぼ同一視されています。ハタヨーガモデルは他の二つとはなかなか整合性が取れないようです。言葉では言い表しがたい宗教的行の実際をモデル化することは本質的に困難なことであると思われます。しかし著者は多角的にあらゆる方向から考察して宗教的行のモデルを作ろうとされます。本書はそのような努力の大きな成果の一つです。実際に宗教的行をしようという者には必読の書と言っていいでしょう。

宗教の進化と科学

一見総花的で統一を欠いた書物に見えますが、宗教的な階梯をあがることが低い次元の心とモノを統合するようなところに行くことであるという文脈で宗教体験や科学、宗教のあり方を統一的に読み解こうとしています。場所と言う概念もそのような文脈の中で語られます。また、妙光之神様が亡くなられ教団を継がれたからでしょう、それまでは個人が如何に霊的進化をするかということが主要なテーマでしたが、宗教の進化、教団のあり方というテーマが浮上してきます。また、統一的なものの見方、全体を統合する原理を求めるという著者の志向のひつとの形として、人間を心身霊の全体として把握するときの原理は経絡を流れる気であるということを論じます。その中でAMIの説明が記されています。本書には立教50年の記念講演が収録されていますが、妙光之神様の霊的進化の物語が実は本書に低通するテーマの基になっています。それは実際に霊や神霊と出会うことを通して真の宗教に至るということです。それが机上の宗教との違いでもあります。そして、宗教の進化がカルマ理解の進化でもあることが述べられます。このこともまた上述の場所概念と関わります。

祈りと救い

本著作集に収められる著作の中では実は初めて祈りという普通の宗教実践に焦点が当てられたものであり、その意味では宗教書らしい宗教書であると言えるでしょう。オリジナルの著者近影もいつものスーツ姿ではなく白衣を召されたお姿です。しかしその内容は宗教書のイメージにあるようないわゆる「いい話し」ではなく、神様に願いをかなえていただくお祈りも霊的進化のための行であることが論じられています。そしてお祈りの深まりの過程がやはり綜制的モデルで語られます。本書では重要な二つのことが述べられます。まず、前書で問題にされた心とモノの統合の考えがさらに深まり、絶対者からモノの世界と精神の世界が生じ、この二つの原理の相互作用により宇宙が創造されるという著者の世界観が始めて明確に語られます。もうひとつは縁起=無自性=空という龍樹的空観です。その空観がかの世界観に組み入れられていきます。

「本山博著作集」第五巻の読みどころ

玉光神社宮司・IARP会長 本山一博

第五巻の読みどころを紹介します。
この巻に収録されている著作は著者の60歳代前半の講演録、講義録、またはそのための準備原稿により構成されています。それまでに多角的になされていた思索が統合され、完成度の高い著作群になっています。

カルマと再生

前著の『祈りと救い』では絶対から世界が生じる大きな世界観が示されましたが、本書では輪廻転生のプロセス、仕組みが大きな世界観の文脈の中で細かに語られます。また、カルマによる再生の仕組み、カルマが発現する仕組みがチャクラを軸にして語られ、霊的生理学の論理が宗教的行の文脈のみならず世界観と再生のプロセスの中に組み入れられていきます。そこで重要な役割を果たすのはやはりAMIによる電気生理学的な研究です。そしてカルマを超えるための宗教実践が語られ、それを空観で理論付けます。つまり本書以前の思想が総合的に関連付けられ統合されているのです。
また、それ以前の著作と比べると、伝統的な説に配慮しつつも著者自らの宗教体験と心霊相談、霊視に基づく知見が前面に出てきています。
本書ではさらにエジプトとチベットの『死者の書』の比較が行われています。

呪術・オカルト・隠されて神秘

『カルマと再生』ではそれまでの著者の諸思想の統合の道筋が付けられながらも、まだ関連付けの弱いところもありました。本書はその点では『カルマと再生』を上回る非常に完成度の高い論考集になっています。著者の思想の特徴である精神とモノの世界観は宇宙の歴史観となり、宗教の進化の歴史観となります。そして宗教の目的は現世利益ではないこと、霊的成長であることが今まで以上に確固として語られ、いかなる宗教的行も行法は霊的成長という目的に沿わねばならず、その要は自己否定であることが明確に主張されます。

「カルマと再生」「呪術・オカルト・隠された神秘」を貫くテーマ

これらの二つの著書を貫く、見落とすことのできないテーマがあります。それは宗教における教義の問題です。さらに言えば教義と宗教体験の問題です。著者は絶対の宗教はないと主張されますが、それは絶対の教義がないということでもあります。なぜそうなのか。つまりなぜ個々の教義は相対的なのかということがさまざまな角度から論じられます。

チャクラの覚醒と解脱

著者が宗教的行としてのヨーガを語られるとき三つのモデルがありました。すなわち、著者独自の三段階のモデル、ヨーガスートラの綜制のモデルそしてハタヨーガの霊的生理学のモデル(チャクラ・クンダリニーモデル)です。本書以前では霊的生理学のモデルはなかなか前二者とは統合されませんでした。しかし、本書に至って題名の通りチャクラの覚醒と解脱の関係が語られます。『密教ヨーガ』では読み手よってはチャクラを覚醒しさえすればそれでよいというようなチャクラ至上主義的解釈に曲解される可能性も否めませんでした。それは自己否定を軸とする著者のモデル、綜制のモデルとの関連が弱かったからです。しかし、本書においてチャクラの覚醒と自己否定の関係が述べられ、著者の修道論の一つの到達点が示されています。それを可能にしているのが、精神とモノの相互作用による世界創造という著者の世界観なのです。

第五巻より見えるもの

この第五巻の著作ではそれまで以上に超作の重要性が語られています。また、これらを読まれると『十五条の御神訓』の原型がそこに見えてくるでしょう。

「本山博著作集」第六巻の読みどころ

玉光神社宮司・IARP会長 本山一博

第六巻の読みどころを紹介します。 この巻に収録されている著作は著者の玉光神社における講話から構成されていますので、信徒の皆さんにとってもなじみやすい語り口になっています。共通しているのはご神言に基づいた著者の世界宗教への論考が深まっていくことです。

地球社会における生き方と宗教

六十歳代前半のころの主に玉光神社における祭事などでの講話により構成されています。本書の特徴としては環境問題と政治経済についての言及が多く、世界宗教についての考察が実際の国際社会との関連でなされているからことがあげられます。実際の世界宗教の姿を射程に入れた考察がなされているのでしょう。また、愛という言葉が多用されるようになります。そして、人間一人ひとりが宇宙の全てのものとのつながっていることを説く話が多くなります。これは1988年に「玉光大神様は宇宙創造の神様である」と宣言したこと(このときの講話も本書に収められています)と関係があるでしょう。宇宙創造の神様とは全てのもの創りそこに宿る神様です。全てに神様が宿っているということを軸に本書を読むとその議論の縦糸が見えてきます。本書において、内なる神と外なる神が実は同じであるということが今までよりも明確に語られています。それは宗教実践において外なる神により自己否定が完成されると、外にいらっしゃると思っていた神様が自分の中にいらしたということが分かるという文脈においてです。そして、本書において「神様の真似をする」ということがかつてなく繰り返し述べられますが、人間が神様の真似ができるのは実は神が宿っているからでしょう。
また、散見される自叙伝的告白は若き日の著者のご苦労が伝わり胸を打たれます。

啓示された人類のゆくえ

元日祭における年頭のご神言を発表されるときのご講話を1974年から1993年の分まで集めたものです。いわば予言の書ですが、それは当たった外れたというような予言の類ではなく、これからの人間と人類のあるべき姿を神が示すという意味での「預」言の書です。
1982年には「世界宗教の基盤を作れ」というご神言が著者に対してあります。それに応じて著者もそのようにするという決意を述べられます。1984年からはご神言は特に多くなり多岐にわたります。その年にはその後の玉光神社の教えを大きく方向付ける「霊界の人々の霊的成長が、これから加速度的に進む」というご神言があります。このご神言を受けて祈りの言葉「顕界と霊界に霊的進化と調和がもたらされ、この世に神の国が実現しますように」が定められます。またこの頃に著者の宇宙観、宇宙創造観が体系的にまとまるようです。1985年では日ごろの心がけとして「超作をせよ」というご神言があります。1986年には「10年ほどで世界の共同体化が加速する」というご神言があります。
1989年では「いろいろな意味で国の内外で波乱が多い」というご神言がある。その他いろいろとご神言があるが、「地球の霊の世界では露米中日で非常に霊的な進化が進む」「50年から100年後に新しい世界宗教が霊界と顕界で行われる準備が今出来つつある」というご神言が注目される。著者は欧州ではどういうわけか霊界での霊的進化が遅いようだとコメントしている。また、太陽系外の銀河系のなかで新しい生物の世界が生まれて、地球の霊界のようなものができつつあるというご神言がある。
著者はまず「西洋的物質文明的な普遍的生活様式」で「各国の生活様式が一種の汎化現象を示しつつある」ことを将来の地球にとって非常に大事なことであると述べていわゆるグローバリズムを積極的に評価する。そのためにはたとえば日本人であれば日本の文化の枠を超えなければならない、そして普遍的な宗教理念に基づいた文化が必要になると説く。非常に統一ということに軸足を置いた議論を展開する。これは今であれば少々修正されるかもしれないが、この時点においてはやはり地球規模の統一された何かを著者が強く志向していることが分かる。
さて、地球規模の普遍的な宗教とは何かであるが、著者はまず自己愛と生への執着が国や時代を超えた人間の普遍的な性格であると述べる。ひっくり返せばこれら自己への執着を超えることが普遍的な宗教のあり方ということになろう。ではどのようにすればこの自己への執着から離れられるのか。著者はここで前年の延長線上にある修道理論を述べる。それがまた、地球統一と日本人、宇宙創造神と玉光大神という文脈と関連しているのが興味深い。著者は自己への執着から離れるためにはまず自己という枠を自覚せよという。そして日本人はまず日本人としての枠を自覚せよというのである。自己の枠を自覚するためにはまず自己を観てそしてその自己の枠を観る必要がある。そのためには自己の外側への視点、そして自己の外側からの視点が含意されていなければならない。それは地球社会、地球宗教のための視点が地球外へのそして地球外からの視点を含意していたのと同じである。そしてここで「自覚」という若いころからの論点が結びついてくる。一方、前年の秋に著者は玉光大神は宇宙創造の神であると宣言するのであるが、この元日の講話では玉光大神は宇宙創造神が日本と日本に縁の深い国のカルマを浄化するために顕現した神だと説いている。そして世界のものがみな宇宙創造神によって創られた同胞であるという意識を根底に持って日本のカルマが解け日本が栄えるように祈れというのである。これは前年までの議論を考えれば、宇宙創造神が他の国でも他の形で顕現し、その国のカルマを解くように働いていること、そして根底ではすべての国の人が本来は宇宙創造神によって創られ生かされている同胞であるということを前提にしているであろう。霊界についてのご神言、さらに太陽系外の霊界についてのご神言は宇宙創造神が文字通りの宇宙の創造神であること、しかもそれが物理的宇宙のみならず霊的宇宙も包含した宇宙であること、地球社会とか地球宗教はそのような文脈で考えるべきことを示しているのであろう。ここでもう一度修道論の議論に戻れば、自己への執着を離れるためには前年の議論のように働きながら、しかもその働いている自己を観なければならない。そして自己の枠を観てそれを自覚し、それを超えなければならない。そのようなことが可能になるには自己の外側からの視点がそこに生じなければならない。つまり他者としての視点が介在しなければならない。人間は働けば必ず他者と出会う。そこに働きながら観るということの重要性がある。他者と出会うゆえに他者としての視点が生じる。しかし動物ではそのようにいかないであろう。動物は感覚を通して他者からの情報あるいは刺激に反応するだけであり、他者と出会うわけではない。人間にはもともと他者の視点を取り込む能力があるのである。それが自覚ということと深く結び付く。しかし、他者の視点をなぜ取り込むことができるのか。それは他者もやはり宇宙創造神により創られそして現に今生かされていて、その点で自己と本質的に同質だからである。いま現に同じ創造神が自己と他者の両方の中で働いているからである。自覚と他者の存在は深く結び付き、その両者は創造神という「場所」により関連付けられる。この議論は実はお馴染みのものである。どこでお馴染なのかというと博士論文の第六章である。いかに博士論文の思想が著者の根底にあるかが分かる。
日本の国のカルマを玉光大神に祈ることが地球社会実現のための実践であると言えるのは玉光大神の本地が宇宙創造神であるからだ、という議論は実はこのように修道論とも深く結び付いているのであった。
また、『地球社会〜』の解題でも記したように全てのものとの同胞意識がこの年から強調されるようになる。
また、興味深く思われるのは霊界や宇宙についてのご神言は著者が「気になったものですから伺った」からあったということである。このようにはっきりと述べたのはここにおけるのが初めてであり、その後の年ではたびたび出てくる。それ以前のご神言には一方的に神から著者に与えられたという印象のものもあった。しかし、ここではご神言は著者への神からの応答という側面が感じられる。ここにいわゆる「神のことば」の絶対性と相対性の問題が生じる。宗教の統合を考えるとき、この困難でそして信仰者には実存的危機をもたらす問題とどうしても向き合わねばならない。そのとき著者がこのように率直に神との関係を告白したものが記録に残ることの意義は大きいであろう。ナーガールジュナは真諦と俗諦の関係を論理的に示しただけであったが、著者はその関係を生身の人間の宗教体験の記録を通して述べているといえる。
1990年ではほぼ前年の内容と同じようなご神言になっている。
著者はこの年になると「三つの勢力」が資本主義、社会主義、第三世界という認識を示す。以前の米ソ中という認識から変化してきている。ご神言の相対性のみならず、ご神言の解釈の相対性もまた問題になるのである。一般に宗教の歴史は一方では教義解釈つまり釈義の歴史でもある。そこに光もあれば影もある。そして実は光としての意義のほうが大きいのである。第三世界に著者が触れるときにはたいてい格差と不公平を問題にし、神はそのような不公平を許さないと説く。その根底にはすべての人間が霊的進化をして神のもとに還っていくという著者の確信がある。そして前年に引き続き同朋意識が強調され、それが愛という言葉になっていく。前著の如く愛という言葉の重要性が増していくのである。
また、自由になったら本当に自由であると説く。自由になったら悪いことが起きてもそれを楽しめるようになる。カルマの中で働いている自分を観客として見られるようになる。そうなると自分の中で変わらずに光り輝いているものが分かるようになる。本当に自由になったら今まで自分が心の中で思っていたことがクズにすぎなかったことが分かる。このようなことを最後に説いている。これは9年前の1981年に見られた彼岸主義的な言葉の延長にあろう。これは脱現世利益宗教であるともいえる。著者はその優れた霊能から信徒からは現世利益を求められることが多かったし、それに実際に応えてきた。それは著者にとっては愛の行為であるのだが、一方では普遍宗教を志向する者として葛藤もあるよう見える場合もある。私が釈尊が現世利益的呪術をきっぱりと否定したということを『密教ヨーガ』の解題に記したとき、著者はそのような釈尊のあり方に非常に否定的であった。しかし、ここでの彼岸主義的態度はやはり釈尊的であり、殉教を厭わなかったイエス的でもある。たぶんこれは宗教が抱える永遠のテーマの一つなのであろう。
同じ年の秋季例大祭の講話も載っていて、ここでは世界平和を祈ることの重要性が解かれている。祈りの力を強調することもまた著者の特徴の一つであろう。
1991年は大きな流れについては今までと変わらないが、この年に崩壊するソ連の混乱や湾岸戦争について多くの専門家が長期化を心配する中、ご神言は早期の解決を予言している。そしてその通りになったことが玉光神社信徒にとっても強い印象を残した。
著者はこの年に中東の地域が地球にとって一つの弱点となるところだと主張した。中東地域は地球の外からの神霊や霊的存在が入ってきやすい場所であり、そのためにかの地では争いが絶えないのだという。1987年のご神言にある善神悪神が地球外に由来するものもあるという認識をここで示し、そのようなものが入ってくる場所が中東地域であるとする。そして人間が自己に執着する限りこれらの神々の影響を受けて争いが生じるが、自己への執着を離れて霊的に成長すれば争いは起こらなくなるとする。著者はここで中東地域は地球にとってマニプラチャクラのようなところだと述べるが、後になって地球にもチャクラがありそれはいくつかの場所にあると主張するようになる。著者の地球思考が一方では宇宙思考であることの一端が見える。
他にはそれぞれの文化の枠を超えた地球文化のための国際的な教育機関ができるというご神言があったという。これについて私が知っている日本の宗教界からの動きをひとつ紹介したい。玉光神社教祖が最初に上京したときに教会のために借りた場所が新宿の少し南の代々木山谷というところであるが、その代々木山谷に妙智會教団という日蓮宗系の新宗教がある。その妙智會が世界の子供の未来のために「ありがとう基金」を立ち上げるのが1990年である。その後教団後継者の宮本けいし師のリーダーシップのもとに「ありがとう基金」が母体となって「子供のための宗教者ネットワーク」が立ち上がる。そして国連との協力関係を築きあげ国際的に著名な学者や有識者と協力をして倫理教育委員会を組織し子供が異文化と出合い、理解し、尊重しあうための国際的なプログラムを2000年代後半に作り上げるのである。妙智會は黒子に徹しおり、一宗教団体のための活動ではなく、国連機関などとの協力のもとに国際的なプログラムとして高く評価されている。
最後のバブル経済について言及しているが、100円の価値のものは100円でなければならないという論を述べている。これは経済問題のみならず仮想現実について考えるときの著者の基本的な姿勢となっていく。
1992年では、著者は始めに人間には心・身・魂があること、してそのそれぞれに個人性と社会性があること、これらの五つの要素が満足できる社会ができなければならないと整理された形で述べる。また、科学と宗教の結びつきについて、エネルギー革命について、資本主義体制の変容についてのご神言を述べる。しかし、著者にとって最も大きく響いたご神言は「今までの人間では、世界に本当の神の国は実現しない」、「人間の魂として最も優れた次元の霊の世界の霊たちの誕生、再生が徐々に始まって、新しい種の人類による神の国の実現が達成されるだろう」「今の、感情と物の原理に支配された人類の再生は次第に少なくなる」という内容のものである。著者は全ての人間が霊的進化をして神の元に還ると信じていた。霊的進化に関して、いわば結果の平等を信じていたのである。それがこのご神言によってある意味で覆される。私はそのときの著者の落胆振りをよく覚えている。また、魔的なものが蔓延る時代になる、という内容のことをこのころからよく言うようになった。若いときから著者にとって魔は実在であったが、一方ではそれは乗り越えられるべきものであり、なおかつ覚者は魔を乗り越えたらそれを包んでしまえるようになるべきであった。しかし、このときから著者にとって魔とは退ければならないものとしても認識されるようになる。著者の宗教観はこの点に関して今まではインド的であった。しかし、このご神言によりむしろ経典宗教的な側面が出てきたのである。
それでも著者は第三世界のことに言及しつつ平等主義を主張する。著者の葛藤が感じられる。これは単に機会の平等だとか、結果の平等だとかいった概念で片付けられるものではないであろう。
そして、前年の秋季例大祭の講話に引き続いて祈りの力が強調される。
1993年のご神言も今までの延長線上にある。この年には宗教観の協力や宗教観の対話の必要性についてのご神言があるが、その後に玉光神社が教団本体としてそれに取り組んだことはない。また、著者はその頃から目立ってきた民族紛争の根底には宗教の争いがあるという認識を示す。私自身はその後に宗教間対話に参加するようになるが、そこでよく言われるのは民族紛争の本質は経済、政治にあるのであり、宗教ではないということである。著名な学者もそのように発言することが多い。しかし私は宗教間の根強い争いがやはり根底にあると思う。宗教が唯一の原因ではないであろうし、多くの場合主たる原因ではないかもしれない。しかし、宗教観の争いという側面を全く無視するのも机上の空論ではなかろうか。宗教が異なる場合に人間の間にできる壁は非常に高くて厚い。宗教的エゴがいかに強力であるかは宗教の世界にいればこそ実感するものである。
また、著者はここで欲望こそが人間社会の発達を促す原動力であることをいったん認める。そのうえで欲望を離れることの重要性、人間と自然の魂に目覚めることの重要性を教えるご神言について述べる。ご神言は全てに神が宿っていること、それゆえに同胞意識を持つべきであること、その自覚が地球社会の実現に必要であることを教えるのである。これは前年のご神言、いわば人間社会の進化の段階説というようなものと対応しているであろう。欲望によって社会を発達させる段階の人類と霊的進化によって社会を発達される段階の人類である。

見えてきたこと

以上のように本書を概観するとあることに気がつく。私はこの著作集の編集のために著者の本を年代順に改めて読んできたのだが、そうすることによって著者の思想の展開が見えてきた。それは著者の中でなされてきたのだと思っていたのだが、本書を改めて読むと、著者の思想の展開には必ずそれが著作に反映されるのに数年先立ってご神言がある。これは貴重な記録である。宗教者としての著者のあり方が深まっていくことの記録であるが、またこれは神と人間の関係の記録でもある。宗教は神が作るのではない、人間が作るのでもない。神と人間の関係の中で生み出されていくものなのである。関係とは常に相対的なものである。それゆえに、この記録は「神の言葉」の絶対性と相対性の関係を証言している。宗教間の調和は人類が挑戦すべき困難な課題である。そこには対話が必要であり、相対化のための葛藤が必要である。それぞれの宗教が自らの絶対性をある意味で放棄するとき、では何が自らの宗教の絶対性であり相対性であるのかという問題に直面し、そして苦悩するであろう。これをどう乗り越えるのかいまだ人類には答えがないといえる。ただ本書の中にはその糸口があるように思えるのである。

「本山博著作集」第七巻の読みどころ

玉光神社宮司・IARP会長 本山一博

第七巻の読みどころを紹介します。特に『場所的個としての覚者』は著者の主著の一つと言える重要なものです。

場所的個としての覚者 ~第一章「場所的個としての覚者」~

著者が60歳から61歳にかけての講義録で、内容は著者の思想の原点である博士論文の第六章「宗教経験と存在」の解説です。しかし「宗教経験と存在」と主に四つの点で違います。まず、本書において「宗教経験と存在」における神霊とはプルシャ以上の神であると明言したことです。次に、『祈りと救い』などで示された著者の世界観、創造論が持ち込まれ、「モノ」を取り込んだ本山モデル(宗教体験の三段階)が提示されたことです。三つ目は「自覚」についての考察が深まったこと、四つ目は、二つの空(絶対者=空、縁起=空)の統合されたことです。
博士論文においては精神とモノの関係は科学的研究において問題にされ、体験的宗教哲学である「宗教経験と存在」においては精神あるいは意識の問題のみが取り上げられていました。本山モデルの中に、モノと精神の二原理を立てながら、その相互作用を説いた世界観が導入されことにより、修道論としての旧来の本山モデル(博士論文で示された精神的な自己否定のモデル)とハタヨーガモデル(霊的生理学な技法、つまり肉体と霊体によって組み立てられた身体技法)の論理的な統合の可能性もまた開けてきました。本山モデルそのものがモノと精神が統合される視点で深められてきたのです。本山モデルにモノと精神の本山的世界観を導入することで、本山的世界観と修道論とが総合的有機的に結びつきます。
また、自覚の問題は『宗教経験と存在』以来著者にとって重要な問題の一つでしたが、博士論文以後は本書に至るまで体系だった考察はされずにきました。しかし、ここでは博士論文より踏み込んだ考察がされています。
二つの空観の統合が指し示している重要なことは、我々の中にモノと精神を統合しかつ超えている絶対者あるいは創造者がその全体をもって内在しているということです。絶対者がモノと精神を統合するものとしてその全体性をもって個人の中に内在するから場所的個が可能なのである。場所でありながら個としてのこのモノの社会の中で働く覚者のあり方が可能になるのです。そして、この論理が修道論としての本山モデルを下支えできるのです。

場所的個としての覚者 ~第二章仏陀の悟り~

仏陀の悟りを著者の立場から解説したものです。
著者によるとヒンドゥー教(正確にはバラモン教というべきでしょう)の覚者たちが達したのはプルシャの次元でありプルシャが永遠のものに見える次元でした。しかし、釈尊はそのプルシャさえも無自性の有にすぎないことを見抜き、そして有も無も超えた法=空=絶対を悟り、ヒンドゥー教を超えた境地に達しました。著者によるとヒンドゥー教的梵我一如における梵も我も有でありますが、著者的(そして著者によれば釈尊的)梵我一如においては梵も我も実は有ではない。あるとかないとか言えない絶対であり、それゆえにモノと精神を統合するものです。
しかし、一方では仏教にはモノの視点が希薄であるとし、仏教の枠を超えた世界宗教の必要性を説かれます。

気・瞑想・ヨーガの健康学

「気』をキーワードにしたオムニバス的講演集です。いくつかの章は非常に完成度の高い論考になっています。

人間と宗教の研究

世界宗教のあり方として、主に経典宗教と大乗仏教(あるいはインド宗教)の統合を目指したもので、第1章では人間観に、第2章ではより大きな宗教の構造に焦点が当たっています。
第1章(1992年)では肉体・微細身・原因身それぞれの次元の身体と心の個人性と社会性(普遍性)についての考察が踏み込んでなされています。『気・瞑想・ヨーガの健康学』の第一章「気の人間学」(1990年)においても微細身の世界についての踏み込んだ考察が見られました。この時期にそれぞれの次元における神秘体験を詳述した講義が著者により行われていますが、その講義録が次巻に収められる『神秘体験の種々相』Ⅰ・Ⅱです。

「本山博著作集」第八巻の読みどころ

玉光神社宮司・IARP会長 本山一博

第八巻の読みどころを紹介します。

神秘体験の種々相 神秘体験の種々相Ⅱ

1986年から1990年までの間のIARPの上級クラスにおける講義録です。神秘体験をその階梯ごとに分けて、つまりアストラルの次元、カラーナの次元、プルシャの次元、創造神・絶対者の次元それぞれの体験を詳述しています。本書では世界観、修道論、宗教論が有機的に結合して述べられています。本書の内容は幅広いのですが、以下の四つが特徴と言えます。①いっそう多重的多層的になった世界観、②多様になった修道論、③右の二つを通して見えてくる修道論の基本的な原理、④プルシャの次元の体験を軸にして既存の世界宗教を相対化し、新しい世界宗教への道筋を示すこと、です。
とくに③では、プルシャの次元においては、モノから「離れる・自由になる」=モノを「観る」=モノを「支配する」、という言わば三等式が成り立つことから、その真似をするという修道論の原理が見えてきます。モノと自分というものの関係はどうなのかと言えば、修行者の立場とすればまずはモノ=自分=身体ということになるでしょう。
一般に具体的な方法論を語ることができる宗教的行の技法は三等式のうちの「観る」力や「支配する」力を養うもののようです。しかし著者が主張する宗教的行の本質はむしろ「離れる・自由になる」というところにあると思われます。「観る」力や「支配」する力を養うのはあくまで自分、モノから「離れる・自由になる」ためです。プルシャの三等式の三項はモノの世界では別ものであるが関連は深い、それゆえ「観る」力、「支配する」力を養えば「離れる・自由になる」ことを助けるということが著者の修道論から見えてくるのではないでしょうか。
一方では「離れる・自由になる」ことを忘れた、「観る」「支配する」だけの修行は宗教的行になっていないということも本書から読み取れます。

「本山博著作集」第九巻の読みどころ

玉光神社宮司・IARP会長 本山一博

第九巻の読みどころを紹介します。1996年から2004年までのもの5冊の著作が収録されています。著者の著作には講演録や講義録が多いのですが、本巻では4冊が書き下ろしです。それだけ内容は濃密です。最初の4冊では地球宗教に対する著者のイメージが固まっていき具体的な修道論に重点が置かれていく過程が見えますが、最後の『存在と相互作用の論理』では一転して哲学的な存在論へと回帰します。

仮想から現実へ

1996年と1997年の講演録からなっています。コンピューター技術による仮想現実を論じながら一方では人間精神の特徴と仮想現実と類似性が高いアストラル世界の特徴を論じています。現代では顕界がアストラル世界に近づいているという時代認識が著者の地球宗教観を形成する下地になります。

宗教とは何か

1998年の全編書下ろしです。本書は著者の立場から宗教の進化を中心的に論じ、そして地球社会のための地球宗教を論じたものです。本書は宗教進化についての著者の思想の一つの結論でしょう。本書で際立っているのは、全ての宗教は相対的なものであり絶対の宗教はないという、徹底した相対主義です。それは本書においてかつてなく強く主張されています。本書の論理の中心になっているのは、著者の創造観・世界観に組み込まれた民族神、地球神の論理、さらにその中に組み込まれた場所的個(聖者)の論理です。地球宗教を提示するために、まず宗教進化を神々の側から見たのだと言えるでしょう。

良心が健康を作る

1999年から2000年にかけてのものです。本書において地球宗教のための理念が「カラーナの次元に目覚めよ」としてはっきりと語られます。それは良心に目覚めよとも魂に目覚めよとも語られます。著者にとってもともと宗教体験とは悟りの体験であり、それはカルマの世界からの解脱の体験であり、それはつまるところプルシャの次元の体験でした。しかし本書においては現代の人類に進化の段階はアストラルの次元にあるという認識のものとに、一人一人の信仰者、日常生活を送る人に対して、プルシャに至る前段階としてカラーナに目覚めることの必要性を説いたのです。それをこれからの地球宗教のための基本理念としたのです。

人間はどこから来て どこへ行くのだろうか

2002年3月以前に書き下ろされたもののようです。第一章の序文においては「易しく書いたのがこの本である」と記されています。これだけは一般の人に伝えたいという内容になっていると思われます。易しく書こうとしたためか、自叙伝的な内容が他の著作に比べると多くなっています。本書第4章の後半では人間の意識、魂、瞑想、超作等について非常に鋭利な考察が一挙に記されていて、これが本書の価値を非常に高めています。現代を価値や意味、人生の目標が喪失した時代であると位置づけ、その原因は人間そのものが物質として扱われる心不在の社会になっているからだとします。人間の生きる目的は物を超えた自由な精神に目覚めるべく霊的進化することであると説きます。しかし著者の修道論は単に物を退けるだけではありません。一つの章を立てて、長年の気の研究の成果に基づいた人体論と健康のための体操が簡略に記され、気を整えることの重要性を説きます。著者の修道論の本質に身体性があることが分かります。最後は超作論で、超作もまた博士論文で示された「本山モデル」に基づいていることが分かります。

存在と相互作用の論理

著者はここで存在論という非常に原理的本質的、哲学的な問題に取り組んでいます。極めて難解で、前著とはあまりにスタンスが違います。著者が本当に取り組みたかったことは、やはりこういう問題だったのではないかと思います。

「本山博著作集」第十巻の読みどころ

玉光神社宮司・IARP会長 本山一博

第十巻の読みどころを紹介します。博士論文のころからAMI研究の曙のころの科学的研究の成果が収録されています。著者の科学的研究についての基本的な発想が見えてきます。それにしてもAMIの発明のころの研究の大車輪の様子はまるで重厚なトラックが疾走しているかのようです。宗教団体における私設の研究所で奮闘される著者のご苦労は並大抵のものではなかったでしょう。そしてそのころに妙光之神様が亡くなり、研究の道半ばで教団のすべてを背負うことになった著者のお気持ちは察して余るものがあります。AMI研究の立ち上がりにおける著者の発想力の素晴らしさも目を見張るものがあります。

催眠現象と宗教経験

古来より宗教体験や神秘体験と関連の深い催眠現象について考察したものをまとめています。個々の論文は全て本著作集の第一巻に収録されていて、主に1960年代前半に書かれたものです。それを一冊の本にまとめたのは、出版当時の1970年代に宗教体験・神秘体験を催眠現象として理解する風潮があったので、その相違点を明らかにするという目的があったからです。しかし、この異なる体験がともに心身相関という大きな共通点をもっていることがまた重要な意味があったのです。

宗教と医学

1970年前後の論文集です。ここで著者は自らの超心理学的研究の方法論と歴史上の位置づけをかなり整理された内容で述べられています。また、まさにAMI発明前夜の研究も紹介されています。著者にとって経絡研究がそのまま見えない世界を示すための研究であることがはっきりと見て取れます。そして見えない世界の研究対象の中身とは、まずはチャクラのことなのです。また東西医学の統合を視野に入れた論考が見られます。そしてライン博士以来の超常現象があるかないかを示す統計的手法による研究の限界を指摘し、超常現象のメカニズムを探求するための科学的実験による研究の必要性を説いています。

経絡-臓器機能測定について

AMIについての初めてのまとまった研究書です。ここでAMIが何を測っているのかを明確にしています。それは手足の指先にある各井穴と手首などに取り付けられた電極との間の電圧をかけた時点からの電流値の変化の時系列での記録です。その変化から何が読み取れるのでしょうか。それを伝統的な経絡の知識と種々の測定を統計処理した結果とを照らし合わせて、経絡の動向であると結論づけるのです。

ヨーガの東西医学による研究

AMIによる経絡の測定とチャクラの理論との具体的な関係が語られだしてきます。またチャクラマシーンによる測定がそれを促進しています。また、二人の違うタイプの優れたヨーガ行者の心身相関(霊体肉体相関というべきか)を様々な側面から測定しています。

「本山博著作集」第十一巻の読みどころ

玉光神社宮司・IARP会長 本山一博

第十一巻の読みどころを紹介します。

『東洋医学 気の流れの測定・診断と治療』

1970年代後半から1984年頃にかけての研究に基づいた論文を一冊にまとめたものです。 ここで著者は見えない世界の知識であると思われていた「気」の知識を何とか目に見える世界の知識、つまり形而下の知識にしようと苦労されています。それは形而下の知識とみなされるようになった気の知識をもって、さらに見えない世界である霊の世界を探るためです。 まず著者はAMIが肉体において何を測っているのかを示すために、そのデータを解析するための4つのパラメータ(BP、AP、IQ、TC)を立てられます。そのうえでBPが真皮内を流れる初期電流値であり、それが体液に満たされた結合式内を流れるものであることを明らかにされました。それは表皮にかけた電圧では真皮内に電流は流れないとするそれまでの生理学の知識を覆すものでした。 著者はBPが経絡の理論の定性的な性質を反映していることを突き止められます。それは各経絡の陰陽関係にかかわるものです。十二の経絡のうち、二つの経絡が陰陽関係にあり、それが六組ありますが、それらすべての組において通常は陰経のBP値が陽経のそれより値が大きいことを突き止め、BPが経絡の状態を直接反映するパラメータであると結論づけられました。そのうえで、BPが真皮内結合式を流れる電流であるとする先の結論と合わせて、経絡とは真皮内結合式における体液の流れのシステムではないかとされるのでした。 著者はここで気の流れを一方では見えない世界の領域のものとされながらも、他方では体液の流れとされ、気そのものの概念を見えない世界と見える世界の両方にまたがるものであるとされるのです。そうすることによって、気の研究は見えない世界の見えない身体器官であるチャクラやクンダリニー、プラーナを研究するための方法論の中に位置づけられていくのです。

『AMIによる神経と経絡の研究』

1980年代中ごろから後半にかけての研究をまとめたものです。 第三章が本書の心臓部です。第三章「井穴・背部喩穴・督脈点の間の相関と、これら三点経穴における針効果の相違」では、BP、AP、IQのそれぞれが経絡系、自律神経系、防衛機能系の動向を表すパラメータとして同定されたうえで、これら三つの身体システムが別個のものであり、かつ関連があることが示されています。 著者は人体(主に肉体)を経絡系という一つのシステムで見ることをなさらず、ここでは経絡系、自律神経系、防衛機能系という三つ別個のシステムが関連をもちつつ重なり合っている全体的システムとして見ていらっしゃるのです。 伝統的なチャクラシステムの説は超感覚的な能力と結びついて語られます。そこで著者はその伝統知識に信頼を置きながら、人体つまり身体を肉体だけではなく見えない霊体と見える肉体が重なったより包括的なものであるとみなされ、その身体モデルの蓋然性を電気生理学的なデータを統計処理することによって高められて、それを手がかりに超感覚的な能力のメカニズムを探っていこうとされるのです。この包括的な身体モデルとは、著者にとっては、自律神経系、防衛機能系、経絡系、チャクラ・プラーナ系という肉体上のサブシステム、肉体と霊体にまたがるサブシステム、霊体上のサブシステムが重層的に重なり合い関連し合う全体的システムのことです。 それがまた、著者の基本的な研究戦略である、見えない世界と見える世界の両方にまたがる現象を通して、見えない世界の知識を見える世界の知識を用いて透かしてみるということとつながるのです。ただし、両方の世界にまたがる現象は以前では主に超常現象でしたが、ここにきて身体というシステムそのものがそのような「現象」とみなされるようになってきました。そのことから、霊能者頼みであった研究からより普遍的な研究に至る道(著者がおっしゃる意味での人間科学) を拓く可能性が見えてきたのです。 また、身体を上のように見なす研究には著者の創造論、世界論を裏づけするための研究という意義もあるのです。

「本山博著作集」第十二巻の読みどころ

玉光神社宮司・IARP会長 本山一博

第十二巻の読みどころを紹介します。

『Psiと気の関係~宗教と科学の統一』

1986年頃の書き下ろしのようです。
まず、表題が示すようにPsiと気の関係がテーマになっています。それらは別のものであるという関係であり、Psiは精神的・霊的なもの、気とは主に物理的な次元・肉体に属するものということが述べられていきます。第11巻でみられたように、気は霊体と肉体の両方にまたがるとしながらも、本巻ではより肉体の次元・見える世界のものとしてとらえられています。また、今まであまり使われなかったPsiという言葉が多用されます。著者は、世界は精神的なものと物質的なものという二つの異なる原理から構成されながら、この二つは相互作用するもの、つまり根底に共通の基盤を持つものであると説かれます。Psiという言葉を使うことにより、Psiと気の次元の違いを明らかにし、AMIによる気の測定を見えない世界の探求のための見える世界の道具として位置づけていくのです。
本書の冒頭で著者は伝統的な知識、自らの神秘体験、これまでの研究成果を統合して三つの次元の心身とそれぞれの次元のチャクラ、ナディという全体的人間モデルを提示されます。著者は初期の頃から電気生理学的な実験によって伝統的な知識の蓋然性を高めようとなさってきましたが、本書では、著者によって統合されたこの人間モデルの蓋然性を高めるための科学的実験ということになります。本書では電気生理学的実験という枠だけには収まらない、チャクラマシーンの実験も紹介されます。本書全体から読み取れるPsiの意味は肉体の次元の心身に属する、あるいは還元されるものではなく、なおかつ物質界に直接働きかけるものというもののようです。Psiは、精神的な意志が肉体の機能を通じずに(手足を使ったり、手足を使って道具を操ったりしないで、また五感によらずに)、自らの肉体の外の物理現象に影響を与えたり、自らの肉体の外の物理現象についての情報を得たりするものです。AMIを使った実験では「気」がPsiのエネルギーではないことが重要な前提となります。表題の「Psiと気の関係」には、Psiの世界の探求のために「気」という肉体次元のものを測定する、という研究の方針があらわれているのです。

『脳・意識・超意識』

初版は2003年となっているが、記されたのは1996年のようです。脳と心の問題を著者は初期のころから問題にされました。まだ東京文理科大学で指導教官の下村教授のもとにいらした頃に、科学基礎論学会において、脳波が測っているのは意識の内容そのものではないという発表をなさいました。しかし、その後の研究や著作において脳の問題が単独で取り上げられることはありませんでした。なぜこの時点で脳の問題に取り組まれたのかというと、そこには時代的な背景が大きいでしょう。第一の要因としては脳科学の著しい発達でしょう。さらに1995年に『脳内革命』という本がベストセラーになり、それ以来今日に至るまで「脳」は現代のキーワードとなっています。
その頃の著者は脳についての最新の知識を貪欲に吸収されていました。私は70歳に達していた著者を拝見して、よくあれだけ新しい知識を勉強するなと舌を巻いたものです。それはすさまじい勉強量でした。本書の半分を占める第一章では脳科学の入門書であるかのようにその頃の先端の知識がまとめられています。著者は、それらの知識を検討し、結論として現代の先端の脳科学でも意識を脳に還元する唯物論的なことは言えないということを確認なさったのでした。
本書自体は、著者が何か新しいものを切り開かれたり、今までの概念を掘り下げられたりしたものというわけではないようですが、本書で確認され、著者が納得されたことは後の著作において深められています。
本書においても、精神が物質に還元されないということと、場所がモノと心の両方の基盤になっているということの両方が主張されています。

「本山博著作集」第十三巻の読みどころ

玉光神社宮司・IARP会長 本山一博

第十三巻の読みどころを紹介します。いよいよ本編終了です。次回からは別巻の配本となります。

『東西医学による診断の比較』

1997年の書き下ろしです。著者自身の実験や他の研究者による実験の概要を紹介し、それに自らの解釈を加えて論じられるという構成になっています。表題が示すように、西洋医学的な所見とAMIデータとを突き合わせることによって、AMIデータの特色を示そうとなさっています。 著者が本書で示されようとしているのは以下のことのようです。 まず、経絡は「肝」や「胃」など、臓器の名称がつけられているものが多いのですが、経絡が西洋医学的な見地での臓器とは違うものを表すことを前提としながらも、それらの臓器と関連が深いことを示すことです。 次に、自律神経システムと経絡システムとが異なるシステムであることを繰り返して述べられます。これは著者にとって最重要なテーマの一つです。当時も今も経絡は存在しないものとし、はり治療などの効果を自律神経系などによって説明しようとする研究者や実践者は多いのですが、そのような考えを著者はAMIのデータによって真っ向から否定なさいます。 また、気の動向が該当臓器の器質的な変化(各組織における病理的・解剖的な変化)よりも機能的な変化(組織等において病理的・解剖学的な変化は見当たらないが、臓器や器官などの働きが変化すること)を表していることを各研究から、特に東京歯科大のグループの研究から読み取り、それを今までの経験から納得ができることと述べていらっしゃいます。

『気の科学』

1990年代後半から2000年代の論文を集めたものです。多くは英訳され、アメリカの雑誌やCIHSのジャーナルなどに掲載されています。 この頃の著者は気の研究に対して主に二つの問題意識を持たれていたようです。一つは西洋医学と東洋医学の関係です。著者は本書において、西洋医学を化合物の次元まで含めて目に見えるもの(本書序文では視覚的なものと表現されています)を扱う医学、東洋医学を目に見える以前のもの、あるいは形をとる前のものを扱う医学として捉えられるようになります。そして、目に見える以前のもの、あるいは形をとる前のものが(生命)エネルギーと呼ばれます。そして、そのエネルギーの物理的次元でのあり方が気エネルギーということになり、非物理的次元のものが霊的なプラーナということになるのです。それゆえ、西洋医学の特徴は形体的なものを細分化して分析的に究明することであり、東洋医学は非形体的なエネルギーの流通・コントロールをするシステム(経絡やナディ・チャクラなど)を統合・全体論的思考で捉えるところに特徴があるということになります。 二つ目の問題意識は、AMIのみによる研究の限界を乗り越えることです。西洋医学に統合的・全体論的思考が全くないわけではありません。全ての知的営みには分析的な部分と統合的・全体論的思考の部分とがあります。どちらに軸足をおくかで違いが出てくるのです。それゆえに気の科学にも全体論的思考だけではなく分析的な思考が必要です。つまり、生命エネルギーを「気」という言葉で抽象化するのみならず、それが体内でどのような形をとって流れているのかを明らかにしていくことが望まれます。そのための研究が特に第11章で紹介されている、真皮内での電位勾配の研究なのです。この研究はまだ緒についたばかりのようですが、AMIによる研究と相伴って東洋医学をより客観的なものにし、さらに前進させるものであるように思われます。 また、第8章ではPsiのエネルギーにより気のエネルギーが受ける影響についての実験結果が述べられています。ここでは、霊的なPsiのエネルギーシステムであるナディ・チャクラシステムと、より肉体的な次元に近い気のエネルギーシステムである経絡との間の相同性と相互影響が心身相関のメカニズムに関わっているということが読み取れるように思われます。

「本山博著作集」別巻Ⅰの読みどころ

玉光神社宮司・IARP会長 本山一博

別巻Ⅰの読みどころを紹介します。

『太乙金華宗旨』

これは道教の瞑想テキストです。その独訳を著者が日本語に翻訳なさいました。著者は1961年にこの翻訳を完成し、同年にガリ版で印刷なさっています。身内の勉強会のためのテキストであったようです。

『支那道教の修行法』

本書の著者はフランクフルト大学の中国研究所の教授でした。著者が1933年に出版された独文のテキストを日本語に抄訳したのが本書です。訳そのものは1955年にはなされていたようです。

『比較宗教学的考察』

本論文は国際宗教超心理学会の1984年に年次大会での著者の講演録です。ここで論じられているのは著者独自の宗教進化論です。
著者は、再生、審判といった宗教の基本的な教義の問題や、病気治し、先祖供養等の基本的な実践について、独自の宗教進化論の観点から諸宗教を整理し論じられます。その点が同時期の『宗教の進化と科学』になかった部分であり、本論文は著者の宗教進化論が非常に整理された形で提示されています。

『愛と超作』

1980年代中ごろから1990年代中ごろまでになされた、著者の膨大なご講話の中から、超作に関わるものを選び出し、文章を整え、整理したものです。本書は編集を担当した私の母の力作でもあります。一回一回がかなり長い著者のご講話の中から、必要な部分だけを切り出し、テーマごとに整理し、一冊の本になるように配置するのはかなりの知力と労力が必要です。 本書で見られる超作の特徴をいくつかあげると、一つ目は、著者の超作概念があくまで場所の概念を前提としていることです。次は、著者のおっしゃる「モノの原理におちた状態」が本書では必然性に支配された状態とされていることです。著者のおっしゃる霊的進化とは必然性からの自由ということでもあります。三つ目はオウム真理教の地下鉄サリン事件に対する、考察です。四つ目は地球社会の実現という、具体的な課題の中で超作という宗教行為が捉えられていることです。

資料集『ノート』『覚書』

著者が20台半ばから30歳ごろにかけて記された手書きのノートや覚書をそのままの形で収録したものです。歴史的な神秘体験家・思想家である著者の神秘体験とその体験直後の考察が生き生きと、ときには生々しく記録されています。息子の視点も交えて、若干の「感想」を思いつくままに述べます。
①まず著者が、玉光大神様がどのような神様であられ、キリスト、釈迦、空海の ような歴史的宗教家とどのような関係にあられるのかを、常に考えられ、探求なさっていたことに、著者に生来備わっている真当な相対主義の精神を見る思いがします。自らの崇敬対象を安直に究極の絶対者に祭り上げない姿勢は、戦後の新しい時代を切り開こうとする宗教者としては必須の姿勢であると同時に、そのような感性を持つ宗教者は意外と少ないものです。
②憑依と胃の関係について論ずるところがあります。このことが著者の科学的研究の大きなきっかけになったことは第一巻の解題で記したとおりです。
③ヨガの勉強ノートからは、著者がヨガを知ったことで非常に刺激を受けられ、熱心に学ばれたことがうかがえます。自ら奉じる宗教にも相対的な視点を持ち込む著者しては、未知の、そして実践を伴った宗教理論に出会い、非常に嬉しく思われたのでしょう。
④二度ほど、就職等のことで心を煩わせないで、玉光大神様に一心についていかなければ、という旨の記述が見られます。男性として、学問の世界で自分の思うような仕事をしたいと思われていたことがうかがえ、私は胸が痛くなりました。

「本山博著作集」完結にあたって(別巻Ⅱ)

玉光神社宮司・IARP会長 本山一博

今回の別巻Ⅱをもって『本山博著作集』全15巻を完結することができました。お導き下さった大神様に感謝申し上げます。著者に感謝申し上げます。また、ご協力いただいた方々、支えてくださった皆様に感謝申し上げます。
今からちょうど50年前の1960年に著者は「宗教心理学研究所」を設立なさいました。そのときは、現在のような研究所の建物はなく、旧社務所の一室においてのスタートでした。そして、同年に研究所の刊行物である『宗教心理研究』が発刊されます。著者はまた1972年に「国際宗教超心理学会」を立ち上げられ、機関誌『宗教と超心理』を刊行なさいます。この両雑誌に掲載された論文等の多くは単行本としてまとめられ、本著作集に収められています。別巻Ⅱは、この両雑誌の掲載物から、著者のタイトルであるもので単行本化されなかったものを選んで、それらを中心に構成されています。また、著者の年譜と論文目録等も収録しました。 本著作集は「宗教心理学研究所」設立50周年の記念事業として企画されたものでありますので、このような形で結ぶことができたのは、企画の趣旨にかなったことであったと思っています。 本著作集は著者が生涯をかけて構築された「本山博神学」の全容を明らかにしています。本山博神学は稀有な宗教体験家であり、文理両方の学問に長け、独自の視点と知的構築力の持ち主でいらっしゃる著者が、不断の努力の末に打ち建てられたものです。 「魂があることを人々に示したい」という思いから出発した著者の探求でありますが、それはひとつには科学的研究においてチャクラナディシステムの存在の証明という方向をとりました。それは霊的身体の存在の証明であり、さらに広くいえば「モノとは何か」という探求でもありました。モノとは何かという探求は、一方では純粋な精神とは何かということを映し出す鏡でもあります。それは、モノと精神の両方を包摂する絶対者についての探求でもあったのです。著者は精神性に偏りがちな現代の宗教の中で、モノと精神の両方を宗教的に探求した現代の密教を打ち 建てられたといっていいでしょう。